「なんだかなぁ」と言わないように初期設定出来るタイプの阿藤快 2011年08月13日 日記 トラックバック:0コメント:0

「誰も得しない」がこのブログのカテゴリーなのだから涼しい顔で自分語りをさせていただくと、なんといっても僕は「元西日本一先輩風を吹かさない人間」としてその名を馳せていたのであり、それは大学進学と共に上京して大学に入ってからも決して色褪せることなく、むしろ益々その先輩風吹かなさ加減は他を圧倒していた。

余りにも先輩風を吹かなさすぎて情熱大陸から取材が来るかと思ったけどギリギリ来なかったぐらい。


 
まず僕は決して威厳がない、そして歳の差や上級生という立場をこれでもかというほど活かさない。
そして後輩に気を使わせない、路傍の石ころが際立って見えるぐらいに僕の方が存在感がない。
さらに後輩と同じ立場に立つ、そう、「優しくする」とはあくまで「優しい先輩が後輩に優しくする」なのであり、それでは結局気の良い優しい先輩だということになってしまうのだが、僕は違った。

僕ほどになるともう優しくするとか厳しくするとか、そういう次元じゃなくって「真顔で鎮座する」だからね。

サークル内で最年長になった時も、僕は驚くほど先輩風を吹かさず、逆に後輩たちの後輩風を全身で受け止めていたぐらいである。
サークルで一度副代表になったのだが、信じられないほど全く仕事をしなかった。
ただ真顔でミーティングに行き、たまに全然面白くないネタをして、打ち上げの席でも店員さんに注文を忘れられるほど。

しかしこれは何も自虐ではなく、かつ自慢でもない。
こういった言わば「無」に近い存在が世の中には必要なのだ。
古来より日本には先輩後輩という関係が良い意味でも悪い意味でも機能してきたと思うし、不可避的であったとも思う。

しかしそれが功罪の両面を持つのだから、必ずしも良い習慣とは言えない。
先輩後輩という関係は人間関係をより一層複雑化し、人と人との対等な関係を構築し辛くさせる一要因とも成り得る。
全く無くなるべき関係ではないが、だからといって礼賛されるべき事柄でもないのだ。

そこでこの僕である。
どうであろうかこの虚無的存在性。
黒でもない白でもない、俺たちはGLAYだ!とでも言わんばかりのこの曖昧な存在。

こういった人間も集団の中には必要なのである。
その効果をはっきりと認識するのは難しいけれども、密かにそして確実に潤滑油としての機能を果たすのである。

この僕の半生を東映は映画化して、「風が強く吹いている」に対抗し「風がびっくりするほど吹いていない」と命名して全国ロードショーしてもいいぐらいだと考えている、全米も泣き叫ぶに違いない。

ということで、もし映画が公開されたら絶対に見てくれよな、っていうか見ろや!おい、俺先輩やぞコラ!!

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