岐阜県を油でカラッと揚げてみました 2011年02月08日 ネタ雑談 トラックバック:0コメント:0

ふと、小学生の頃の図工の授業で、紙ねんどを使った時間があったことを思い出した。
先生は、「紙ねんどにちょっとづつ水を塗って柔らかくしていって、何かものを作ってみましょう」と言った。
そしてまた、「ただし、水を付けすぎると、乾いてきた時にひび割れしちゃうから塗りすぎないようにね」とも。

なるほど、これは中々に深いのではないだろうか。
勝手な思索ではあるが、これは人生についても似たようなことが言えるのではないか。


ねんどで自分の好きなものを形作ることをいわゆる「人生設計」、水を塗ることを「努力」とする。
自分の思い描くままに自分の人生を形作ろうとあれやこれや努力をする、それ自体は何ら悪い事ではない。
しかし余りにも頑張りすぎたり(水を塗りすぎる)、努力の方向性を誤ったり(塗るべき所に塗らない・同じ所ばかりに塗ってしまう)と、それが続けばやがて人生に歪みが生まれ(ひび割れが生じる)、さらにどんどんと歪みが重なり合って、最後には人生が崩壊する(紙ねんどはバラバラに崩れ落ちる)こともあるのだと。

たくさん水を塗ればもちろん紙ねんどは柔らかくなる、そのために思い通りの形に調整しやすい。
しかし水を塗っているまさにその時には全てが順調に思えても、一旦形を作り終えて作品を固めるために乾かしている時に、作っている間には想定していなかったひび割れがみるみる顕在化してくる。

やはり何とも残酷なのは、水を塗っているまさにその時には全てが順調に思えるということである。
この順調さが己の失敗への注意・恐怖心を覆い隠してしまう。

さらに、失敗が時系列的にかなり後になってから判明しやすいというのもまた、残酷性に拍車をかける。
本人が一生懸命水を塗っている時に、その初期の段階でひびが目に見えるように表に現れてくれれば、その後布巾で拭くなりしてすぐに修正を計れるのであるが、全ての行程が終わって後は待つのみという最終段階になってようやく、自分の失敗を表すひびが現れ始める。

人生で言えば、本人はその努力が量・方向性共に正しいと信じて一生懸命に時間と労力を費やすのであるが、それは、例えば勉強ならば点数となって効果が分かるし、スポーツならばパフォーマンスの向上や競技成績の向上で効果が分かるし、人間関係の構築ならば友達や知り合いの人数の増加で容易に分かる。
そしてもちろん、その時は自分の努力が実り、順調に上手くいっているとしか思えない。

しかしそれはあくまで、その段階その段階での効果であって、人生というストーリー全体を俯瞰して見てみた時に、勉強を頑張ること、スポーツを頑張ること、人間関係を構築することが、果たして本当にその人の理想の人生を実現するための大きな要素なのか、それが相当に重要であり、そして余りにも分かり難いのである。

紙ねんどならば、失敗すれば次回作から気を付ければいいのだが、これが人生ならば一度きりであり、後になって失敗に気づいたとしても、もはや学習の機会が無い、もしくは極めて少ない。
人生の後半期に多くの歪みが表に現れてきたところで、もはや手の施しようが無い場合が多々あるということだ。

しかしここで紙ねんどとまたしても共通して、もう一つのことも言える。
そう、結局「水を塗らないことには(努力をしないことには)理想には到達できない」のだ。

水を塗ったらひび割れて最終的には失敗作に終わるかもしれない、しかしだからといって全く水を塗らなければ、紙ねんどはいつまで経っても固く、理想の形にするのは難しい。
努力をしたからといって、その努力の量・方向性を間違えてしまい、結果的に努力が報われないかもしれない、しかしだからといって、全く努力をしなければ、いつまで経っても事態は停滞し、理想の人生とするのは難しい。

理想の紙粘土作品も、理想の人生も、常に全体を意識しながら水や努力を加えることが必要だということである。

もしかすると、今では遠きあの日の小学生の頃の図工の授業の紙ねんどの時間では、生徒たちにこのことを暗に伝えるために、学校・教師が企てた、誠に貴重な授業だったのかもしれない。


ちなみに僕はその授業中にふざけて紙ねんどでチンコを作って先生にめちゃくちゃ怒られた。

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