ペプシ熟女味 2009年11月02日 日記 トラックバック:0コメント:8

↑野です。

履いていくパンツがなかったものですからノーパンで大学&図書館だったわけです。
俗にいうノーパン・キャンパスライフだったのです。
秋の爽やかな風が吹き抜けていましたとも、ええ吹き抜けていましたとも私の股間のライブラリーにも。

「秋茄子は嫁に食わすな」とは間違いであると考えます。
正しくは「秋嫁にパンツを履かすな」と言うべきでしょう。

こうして{↑野?パンツ×底辺÷2}は図書館にて本を読み勉強をし、人知れずノーパン背徳感をご賞味していたのであります。

そしてこの背徳感が何とも曲者なのです。
誰にも気づかれていないことは明らか。しかし人の視線が僕を貫くたびにまさかあの人には軽い透視能力が備わっており、マイフェイバリットサムシングが丸見えなのではなかろうかと想像してしまう。

普段はチャックが開いていても「おっとしまった、チャック開いてら、パンツ見えてる見えてる」で済まされる愛すべき日常も、そこにあのか弱き布きれ一枚なければ途端に軽犯罪者最前線に浮上。
あの薄い布きれ一枚にいったいどれほどの人々が平和な毎日を保証されているのかは大いに考察の価値があるでしょう。

そのか弱き一枚さえも身にまとわず颯爽と社会に繰り出すことにより我がアイデンティティーはさらなる高次元を行き、新たなる楽しみを一抹のリスクと引き換えに得るのであります。

ノーパン、ただのパンツを履かないアンチリスクマネジメントに非ず。
それは儚き(履かなき)サムシング。

というか勘違いをしてはいませんか?
ノーパンとはNOパンツの略ではなくてNo more パンツの略ですよ?
「パンツ履いてない」ではなくて「パンツなんて履いてなるものか」ですよ。
パンツに対する離別の決意が大いに含まれた表現なのです。

そういったことを見てみると何故人はパンツを履くのでしょうか?
履かないとやっていけないわけではなく、必要性が差ほど高くはないどころかほとんど必要がないと言っていいようなものです。
そもそもはパンツという概念すらもなかったはずです。
にもかかわらず何故人はパンツを履くのでしょうか。

その謎は歴史の中にあります。

太古より人々はノーパンと共に歩んできました。
そこにわずかな争いはあれど、大きな戦、憎しみが憎しみを呼ぶ不毛な争いなど存在しなかった。
正確にはし得なかった。

古代ギリシャにおいてはノーパンこそが万人にとってのEudaimonia?エウダイモニア?(幸福)であった。
パンツを履かないことにより人は形而下・形而上のあらゆる束縛から解放されエウダイモニアを手にした。
階級格差こそあれど人はみなノーパンという共通アイデンティティを持ち、自由と幸福を謳歌していた。

しかし人々はいつしかパンツを履くようになった。
文明が発展するにつれて物事を包み隠す必要性が出てきたためと言われています。
パンツを履くことで己をがんじがらめにし、欲と混沌以外の全てをパンツによって封じ込めました。

それから数千年もの間、数々の悲劇と愚行が繰り返された。
ノーパン無き世に秩序と平和もまた無いのである。
賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。
されど賢者無き今の世にノーパンの価値を認識する者は皆無。

そして今社会は逃げ場のない閉塞感に包まれている。
構造改革からの新自由主義台頭による過度の競争社会の流入による社会全体の疲弊。
それに伴う経済・物質至上主義。
共有アイデンティティの喪失による人と人との関係性の希薄化。
その社会で育つ子供たちの未来は果たして明るいのか。

我々は賢者ではない。愚者である。
歴史から学び取りそれを生かすことに失敗した。
しかしそれは差ほど問題ではない。
歴史から学ぶことに失敗したのならばせめてその失敗という経験から学べばよい。

今こそ、今こそノーパンに回帰することが必要なのではないのか。
目覚めよ現代人よ、脱ぎ捨てよその鎖を、汝が心を解き放て。

そして14歳?26歳の美しき乙女たちよ。
脱いだパンツは全て私の自宅に速達で届けなさい。

これぞ我らがエウダイモニア。

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