スタジオジブリの次回作はもうそろそろ僕が主人公でもいいと思う 2009年07月29日 ネタ雑談 トラックバック:0コメント:30

どうもみなさんこんばんは。
「日本社会には反吐が出るぜ」が口癖の↑野です。

今回は僕の大切なことについて語りたいと思います。

「全裸のすすめ」


そう、私が今回声を大にして語りたいことそれはずばり「全裸」です。
とは言っても世間の皆様は「いきなりなんなんだこいつ?」と思うのではないでしょうか?

しかしこんな世の中だからこそ私は主張したいと思うのです。
「全裸の素晴らしさ」というものをです。

今日の社会においてはこの全裸と言う状態、若しくは行為が公的な場ではまず認められるものではないものと思います。
さらに家の中やプライベートな場でさえも全裸は「恥ずかしいもの」「情けないもの」「だらしないもの」といった扱いをされるケースが多いと思われます。

私はこのような社会の風潮に警鐘を鳴らしたいと思います。
何故ならば先ほど申しましたように全裸は本来とても素晴らしいものであると思うからです。

私がそのように思う根拠は3つあります。
そしてそれは

1、全裸は人間の本来の姿

2、人生を豊かにするものである

3、社会をも豊かにする

ということです。


まず1及び3についてですが、これは皆様もなんとなくは分かることと思います。

太古の昔人間は全裸でした。
暑い時期も寒い時期も病める時も健やかなる時も全裸でした。
あなたがこの世に生まれて来た時あなたは何かを身に纏っていましたか?
つまり全裸こそが人間の究極の「自然体」であり、人間が自然の中に身を置く時の当たり前の姿なのです。
そしてそれは同時に「着飾らない」ということにも繋がります。
人々が最も自然でいられるのは全裸の状態の時であるといっても遜色は無いのではないでしょうか。
これら文字通り「裸の付き合い」を実行することでより偏見や差別の減少、さらに詳細には普段の生活の中での人と人とのコミュニケーションがより円滑に進むということも言えるのではないでしょうか。これが現代の社会に存在する様々なコミュニケーション不足による問題を大なり小なり解決すると思われます。

さらに現代の人間は自然というものからあまりにも離れてしまっているのではないかとも思えます。
環境破壊から科学の進歩による諸所の文明の生み出した人工物。
空調機があれば冬も暖かく夏は涼しく過ごせます。
飛行機の発明によって人々は行きたい場所に行きたい時に行くことができます。
パソコン等の機器により瞬時に欲しい情報が手に入ります。

人々はそれで豊かになったと言います。
しかし果たしてそれは豊かなのでしょうか?
真の幸福とはそのことなのでしょうか?
我々現代人はアウストラロピテクスの頃と比べて飛躍的にその人生を豊かに出来ているのでしょうか?

私はそうは思いません。
文明が如何に発達しようとも人間とは自然から離れては生きてはいけないのです。
発達しすぎた文明は自然の雄大さをいずれ蔑み、どんどんと自然から逸脱して行くのでしょう。
そしてそれは空気を入れすぎた風船がやがて破裂するように人間は人間自身の文明によって滅びることとなると思うのです。

それでは我々は今から何が出来るというのでしょう?
正直、これ程までに文明が発達し後戻りが難しくなってしまった現代の世界で今我々が出来る最低限の自然への帰化とはどのようなものでしょうか?

そう、それが「全裸」なのです。

全裸でいることによって自然との一体感、大自然の中では人間とて他の生物と全く同じ母なる自然の一部であるとの認識が強くなります。
ここから環境破壊に留まらず今の社会が完全に忘れてしまった自然との共存がより色濃く見えてくるはずです。

これが人間を救う重要な一歩となると私は信じています。

そしてそのように本当の意味で豊かになった社会に身を置く一人一人の人間も幸福を感じ取ることが出来るようになります。
これが2に挙げた「人生を豊かにするものである」という発言の真意です。
上に挙げた3つの要素はどれも密接に関連し合っています。

人間が本来の姿に戻ることによって社会、そしてその構成員である私たちも本当の意味での幸せを手にすることが出来るというわけです。

想像してみて下さい。
あなたが全裸になって街を、大自然の中を練り歩く風景を。
他人に対する信頼感は今まで以上に増し、それによって社会の中での自分の存在意義がしっかりと感じ取れます。
そこから社会において他者からの承認を得やすくなり、それが自己同一性、いわゆるアイデンティティーの形成に繋がります。
一般的にアイデンティティーとは「自己同一性」と訳されるためにある人が自分一人で創り上げるものという誤解が多いのですが、それは違います。
アイデンティティーとは社会の中で他人との密接な関係の中で他の人と言わば「社会的相互承認」を交わすことによってのみ創ることが出来るのです。
その他人との社会的相互承認が得にくくなってしまった現代の閉鎖的社会において、この全裸というものがそれを行い安くするための重要な要素となるでしょう。

しかし現在の社会では全裸は「愚か」「バカらしい」「不浄なるもの」といった扱いを受けます。
その理由を考えてみると、海などで半裸状態ではなんらそのような認識が無いことを考慮すればやはり陰部を見るべきではないものとしているのが主な原因と思われます。
しかしここで根本的な考え方をしてみて下さい。

「陰部は見るべきではないもの」でしょうか?
人間が他の身体の部分と同じくこの世に持ち合わせて生まれてくるものであるのに?
子孫繁栄のための素晴らしい身体のパーツであるのに?

何を臆することがあるのですか?
人間が何千何万年も時を重ね今も地球上に存在することができているのはこれのためとも言えるのではないでしょうか?

それは果たして「不浄なるもの」でしょうか?
「人に見せるべきではないもの」でしょうか?
抜本的な考え方をしてみて下さい。
上記のようなものではないはずです。

しかし我々が陰部を上記のように考えてしまうのはやはり人間が自然から離れてしまったことを如実に表しているのではないでしょうか。
本来見えていてもおかしくもなんとも無いものがおかしいと思える。
本来神聖とまで考えられるものが不浄とされる。
これらは今の人間が自然を離れ文明に身を任せ過ぎているために起こった言わば拒否反応であり、大げさに言えば「最終警告」なのではないでしょうか。

なぜダヴィデ像は全裸なのでしょう?
私にはそれは、ミケランジェロが人間が全裸であることの重要性に気づいていたためと思えて仕方がありません。
専門家の多くはミケランジェロのダヴィデ像をはじめ、多くの古代ギリシャの彫刻家が全裸の像を彫った理由に「肉体美への賞賛」ということを挙げています。

私はこの、彼らの愛した肉体美というのはただ単に人の身体の形状の美しさに留まらず、
「大自然の作品としての人間の身体」ということが美しいとされる理由であったのではないかと思われます。

もちろんこれは私の憶測に過ぎませんが、容易に否定できないのもまた確かだと思います。



このように全裸とは人間と自然とを結ぶ重要なものであり、これが現代社会の様々な問題を解決し、我々人間を救うことになる言わば救世主となると私は考えます。


これを見た今もまだあなたは服を着ていますか?
心にも服をまとってはいませんか?


さあ、そのしがらみを脱ぎ去って街へと繰り出してみてください。

何が見えましたか?
人々の笑顔でしょうか?
それとも大自然の息吹でしょうか?




私にはパトカーが見えます…

トラックバック URL
http://ueno3460.blog8.fc2.com/tb.php/169-b173e72e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)